Masuk花江さんが俺の前に椀が置いた。
母さんの顔が不機嫌そうに歪む。
一応これは心配している表情なのだろうが、表情筋が不器用なため『不機嫌』にしかみえない。
いや、不機嫌もないわけではない。
俺の夕飯が気に入らないのだろう。
俺の夕飯の内容はいつも、野菜も肉も魚も原型にないほどドロドロに溶かしたスープに少量の米が入った雑炊。
離乳食のような見た目のこれが、俺がいま、恐らくこれからも食べられる唯一のもの。
いや、他でも食べることはできるから、『消化できる』が正しい表現。
草薙グループの副社長として会食の席に招かれれば、食べないなんて不作法はできないから食べるのだが、数時間後には吐いてしまう。
酒の席は気が重い。
酒を飲むと胃が焼けるように痛む。
·
周りが煩いので医者にも診せたが、検査の値が全て正常値というわけではないが医者には『問題ない』と言われた。
食べると吐くという『異常』は身体的なものではなく心因性のものと診断され、心当たりがあった俺はその診断を受け入れている。
心当たりは、北海道の【彼女】のアパート。
ろくに食事もできていなかったことが分かる、貧困を具体化したような【彼女】の生活環境を目の当たりにしたから。
·
北海道にある【彼女】のアパートは狭く、古めかしく、がらんとしていて、何もなかった。
警察が【彼女】の死を『他殺性なし』と判断したあと、俺は警察に頼み込んで【彼女】のアパートに入れてもらった。
年頃の女性の部屋とは思えない、何もない部屋。
あった家電は、部屋に据え付けのエアコンと床にあった炊飯器。
冷蔵庫すらない台所の流しのカゴには、一人分の食器。
見つけた食材は、生米と値引きシールの貼られた野菜、半分使われて五個残った卵だけ。
ゴミ箱には、缶詰めの空き缶がいくつかあった。
食塩不使用というラベルの文字が、【彼女】が腹の子のために頑張って食事をしていたことを俺に想像させた。
警察が
五百万円と少しの貯金残高と、この貧困生活のギャップを埋める必要が警察にはあった。
警察に問われて、俺は「知らない」と答えた。
俺が知らなかったのは真実。
でも、想像はついていた。
あの五百万円の出どころと、【彼女】がそれを使わなかった理由は……。
ガッシャーン
離れのほうからガラスの割れる音がした。
「また修理業者を呼ばないとな。花江さん、頼んでもいいかな」
花江さんは頷いたあと、母さんを見た。
母さんは、唇を噛んでいた。
沈黙。
「あなた、なぜ聞かないの?」
我慢比べは、俺の勝ち。
我慢比べは後ろめたさが少ないほうが勝つし、この先の会話の主導権も持てる。
「何を聞いてほしいのです?」
質問に質問で答えた俺に、母さんが苛立つのが分かったが、それに満足感も、ましてや勝負に勝てた満足感も、高揚感すらない。
ただ、虚しい。
俺と母さん、いい年した二人が何をやっているのかという呆れた思いがトンッと俺の心に乗っただけ。
·
あの五百万円を【彼女】に渡したのは、母さんか綾子だとは思っていた。
【彼女】を邪魔に思っていたのは、この二人だったから。
どちらかといえばで綾子、もしくは綾子と組んでだと思っていたから、母さん単独は多少は意外ではある。
問題は、母さんが何を知っているのか。
母さんは、俺の綾子への態度を知っていても何も言わない。
綾子があれだから草薙の後継者は一族から養子を迎えると言っても、母さんは反対しなかった。
草薙を一番に考える人だから離婚を勧めると思ったけれど、それをしなかったから多分『それなり』に知っている。
もしかしたら、『それ以上』……この『それ以上』が俺の苛立ちの原因。
新たなパズルのピースを手に入れることに、かなり時間がかかったことへの苛立ち。
でも、俺がほしいのは真実だ。
母さんの保身で真実が歪められては堪らないから、ずっと堪えてきた。
そして、これからも耐える。
最後のピースをはめる、その瞬間まで。
*
「あの子は、あなたに会いたいと会社に来たの」
「いつ?」
「あなたがアメリカに出張していたとき。あまりに必死で困っていると、受付から私のところに連絡がきたわ。だから私があの子に会った」
この『だから』は理由が足りない。
でもいま重要なのは、それではない。
「【彼女】はなんて?」
「お金を貸してほしい、と。まとまったお金がいる。安全なところから借りられないから、他に当てはないから貸してほしいと言っていたわ」
母さんは、一息ついた。
「あなたに代わって私が払うと言ったわ。あなたに二度と会わないことを条件にね」
「典型的な手切れ金だな」
「そうね。息子が結婚を期待させたお詫びだとと言って、五百万円をその場で彼女の口座に振り込んだ」
結婚を期待させた、か……。
なんでそんなことを言った?
そもそも、なんで手切れ金を払おうとした?
母さんは、分かっていたんだ。
【彼女】は違うって。
母さんが思っていた金目当ての女ではないと分かっていた。
それなら……。
「【彼女】は、俺の子を妊娠していたことは言わなかったのか?」
母さんは頷いた。
その表情は、悔しそうだった。
「言ってくれれば、私はあの子
リン……リン…… 鈴の音?どこから?なぜだ?辺り一面が、暗い。ここは、どこだ?俺は、何をしていた。 リン……リン……ああ、そうだ。小林陽翔との話に疲れて、家に帰った。でも人と話す気にならず、一人になりたくて、温室にきた。父が使っていた、今では誰も使わないベッドに俺は寝転んだ。カジュマルの木に、見下ろされている感じがしたんだ。 ペトリ「……っ!」湿ったなにかが、俺の頬に触れた。小さな、手?犬?猫?いや、毛の感触はなかった。それなら、人間?でも、こんな小さな手を知らない。……いや、知っている。あの子の手は、小さかった。「洋輔さん」花江さんの声?どこから?あれ……痛い……。 !「洋輔さん。こんなところで寝ていたら、体を悪くしますよ」……寝ていたら?俺、寝ていたのか?体を起こそうとしたら、手のひらに砂の感触。……俺、ベッドで寝ていたんじゃ? ペトリ「うわっ」顔に触れた何かの感触に。俺は思わず、声をあげた。ぼんやりしていた視界がクリアになる。胸元に一枚……これは、カジュマルの葉?……ああ、そうだ。俺は、温室で……あれ?「お目覚めになりましたか?」「ああ、うん……」……なんだ?「花江さん、化粧を変えた?」「どうしたんですか、突然」「いつもより、若く見える」俺の言葉に、花江さんが照れて俺の背中を叩いた。思いのほか、力が強い。痛い。「娘が誕生日にくれた化粧品の効果でしょうかね」……いや。そういうレベルの話じゃない。違う。変だ。俺の知っている花江さんは、年をとったお婆さんだ。これは、夢か?いや、夢なら、痛みは感じないとよく言う。だから、きっと、夢ではない。「春ですからね、のんびりお昼寝したい気持ちもわかりますよ」「……春」「でも、来週には四月になりますよ。気合い入れてくださいませ。奥様も期待していらっしゃるのですから」「奥様って、綾子が?」花江さんが、首を傾げた。「田沢家の、田沢綾子様ですか? ご婚約が決まったのですか?」田沢、綾子?婚約?戸惑う俺とは対照的に、花江さんは首を縦に振る。何か分かったように、ウンウンと頷いている。「ここだけの話ですが、奥様は洋輔さんの女性関係に疲れておられましたから。ご婚約者をお決めになって、奥様を安心させること
「唯の死を知り、あの者たちに復讐をしようと思いました。でも五人も殺すのは難しい」確かに。日本の警察は優秀だ。「しかも綾子は草薙夫人として普段から守られていますからね。どうしようかと悩みましたよ」「それで祈祷師か」小林陽翔はにこりと笑った。 「最初は、墨田聡に近づきました。あなたの使いの振りをして。森川唯が死んだこと、三沢加奈から墨田聡が森川唯を暴行したと聞いたが本当か、と」当然、墨田聡は否定した。それでも、何度も小林陽翔は「本当か」と墨田聡を問い質した。小林陽翔のしたことは、それだけ。三沢加奈を殺せとも、何も言っていない。しかし、三沢加奈は死んだ。墨田聡の単独か、それとも風間夫婦も協力したのかは分からない。 「次に、風間奈美に近づきました。三沢加奈の遺族から頼まれた弁護士だと言って、墨田聡について彼女に尋ねた。当然知らないと風間奈美は否定したが、三沢加奈から聞いているとだけ言って、墨田聡について聞き続けた」三沢加奈のときと同じ。ただ小林陽翔は聞いただけ。そして墨田聡は死んだ。風間奈美か風間太一の単独犯か、それとも夫婦で協力したのかは分からない。「私は風間奈美と風間太一、別々に接触した。風間奈美にはそのまま三沢加奈関連の弁護士として、不審な金の流れがあるから警察が風間太一を探っていると伝えた。風間太一には警察と名乗って、不審な金の流れがあるから風間奈美について捜査していると伝えた」金については、唯のノートに書いてあった。金のために、自分の人生はめちゃくちゃになったと。風間奈美の前で、風間太一は唯を犯した。二人の間に”愛”はないと、小林陽翔は思ったのだろう。すでに殺人を犯すという禁忌の域にあった二人は、それぞれ相手を殺そうと思った。だから、別の毒。同じタイミングで死んだのはただの偶然。
「こんにちは、最近すっかり涼しくなりましたね。持明院に行きましたか? あの傍に、とても広いすすき畑があるんです。その時期になると見ごたえがありますよ」どうやら俺の行動は小林陽翔にお見通しらしい。唯の骨のありかについて、早く知りたいという思いもある。しかし、焦る必要はない。唯の骨がどこかに捨てられたなどと思う必要はないからだ。小林陽翔が盗んだのなら、どこか安全な場所にある。「先日の話の続きを聞きに来ました。あと、本の差し入れを数冊。唯が好きだと言っていた映画の原作です」「それは楽しみですね。私はヒューマンドラマが好きなんですよ」「そうでしたか。唯が好きなのはホラーだったので、お気に召さなければ言ってください」小林陽翔の顔が少し強張り、俺は留飲を下げた。 「虫の知らせとでも言うのでしょうか。私は翌日、唯に会いにいくことにしました。心配だと言って煩わせるのは嫌でしたが、買い物だと言って誤魔化そうなどと思いながら、事故処理中の現場を通過しました」そのとき唯が事故に遭ったと気づいても、事故処理中では何もできなかった。警察から、おそらく唯は即死だと聞いている。即死であってほしい、そう思っている。「唯から、何かあったときのためにと家の住所と、その鍵をもらっていました。私はあの子の部屋を見て、愕然としました。唯が帰ってきたら、どこか食事に連れていこうと思いながら、近くの駐車場で唯が帰ってくるのを待ちました」ふう、と小林陽翔はため息を吐く。「夜になっても帰ってこないから心配になって、あなたの結婚式でショックを受けていましたし、何か手掛かりはないかと、またあの子の部屋に入りました。そして、ノートを見つけたんです」「ノート?」警察の捜査で、そんなものは見つかっていない。つまり、小林陽翔が持ち出したということになる。「まだ新しいようなのに表紙はぐしゃぐしゃで、ところどころページが歪んでボロボロで、日
「結婚を考えている人がいる。そう書かれた唯からの手紙を受け取りました」それを思い出したのか、小林陽翔が顔を緩める。「手紙はいつもの白いシンプルなものだったのに、あのときは、花柄の便せんでした」ただ手持ちがそれだったという可能性もあるが、それだけ唯はその結婚を喜んでいるのだと、小林陽翔は思ったという。 「どんな人と結婚するのか。相手の男性に会ってみたいと思いましたが、まるで父親のようなことを言うのも憚られ、どうしたものかと考えているとき、突然唯が訪ねてきたのです」「それは、もしかして……」「そうです。当時の私は北海道にいました。私のところにきた唯は、ゲッソリとやつれていました。なにがあったのかと問えば、結婚はなくなったと。でもその男の子どもを妊娠しているから、産もうと思うと言っていました」寒いのが嫌いな唯が、なぜ北海道に行ったのかがこれで分かった。 「男女のことにいろいろあるのは、私も分かっています。住職として地方の寺にいたので、金を使うこともなく貯まっていたことから、寺にいてくれていいと唯には言いました。却下されましたけれどね。こんな山奥の寺で産気づくのは怖いと言ってね」「……山奥?」俺の問い掛けに、小林陽翔は遠い目をした。「北海道で私が派遣されたのは山奥にある寺でした。あの地は雪深く、春の雪解けまでは唯と会うことはできず、ただ時折届く『元気だ』というメッセージを信じていました」俺の頭に、唯が住んでいた北海道のアパートが浮かんだ。家具もないガランとした部屋。あった家電は据え付けのエアコンと炊飯器。冷蔵庫すらない部屋。「雪があらかた溶けて、寺の食料の買いだしも兼ねて唯に会いにいこうと思った矢先に、あの子が寺にきたのです。腹も大きく、何かあったらこんな山奥では不安だというあの子がなぜ来たのか」あの日は……。「SNSで、あなたの結婚式を見たそうです。一人ではいたくなかっ
小林陽翔は、数ある寺院の中でも「名刹」と呼ばれる、由緒ある寺の次男だった。穏やかな気性で、同じ年代の子どもたちよりも大人びた小林陽翔は、その整った容姿もあって、跡取りのいない寺の婿へと縁談が数多く来ていたという。 あるとき、小林陽翔が十五歳のとき、寺に一人の女性が預けられた。彼女は交通事故で両親を亡くした資産家の娘で、心の傷を癒し、また地元有力者の元に嫁ぐ予定だった彼女は行儀見習いとして寺に預けられた形だった。しかし、その地元有力者は二十歳の彼女の倍近い年齢。過去に二回結婚し、どちらも暴力沙汰で離婚したという曰くつきの人物だった。彼女はそんな結婚を嫌がっていた。そんな状況で、自分に優しくしてくれる美少年の小林陽翔に彼女は恋をした。恋心なのか、それとも現実からの逃避か。彼女は小林陽翔を襲う形で関係を持った。計算して行為に及んだからか、その一夜で子を宿した。それが、唯だ。 彼女は妊娠したことで小林陽翔に結婚を迫った。しかし、小林陽翔には彼女に女性としての好意はなく、襲われたという事実もあって彼女との関係を否定した。彼女は小林陽翔の子どもだと言い張った。当時は母体の血液から胎児のDNAを抽出して鑑定する方法は確立していない。彼女は出産して小林陽翔に結婚を迫ることにしたが、その直前に彼女の幼馴染で婚約者だったという男性が彼女の人生に登場する。「迎えにいく」という彼の言葉に、彼女は小林陽翔への恋心など一切忘れた。その瞬間、彼女はお腹の中の子どもが邪魔になった。彼女は子どもを宿したという事実を、迎えにくる男に知られることを嫌がった。彼女は小林陽翔に堕胎したと言い、生まれた唯を公園に捨てて、迎えきた男と海外に行った。 唯が十二歳になる頃、小林陽翔の元に彼女の家で家政婦をしていた女性がきた。彼女は子どもは堕胎ではなく、産んで捨てたことを小林陽翔に告白した。
「草薙綾子さんで間違いありませんか」警察官が遺体安置所で白い布を捲ると、そこに現れたのは綾子の顔だった。同じ死体でも、焼け焦げた唯とは違う。一見すると眠っているような死体は、「きれい」と言われる類の死体なのだろう。しかし、血の気の失せた肌や真っ青な唇など『死』をまざまざと見せつける綾子の死体。どこか作り物めいていた唯の死体よりも、俺には不気味に感じた。 「間違いありません」その後、所持品の確認が行われたが、綾子の所持品など知らない。全てに「多分」と答えたが、それで問題なかったのは、綾子が警察に保護されているという特異的な環境下で殺されたからだろう。多分綾子の所持品であるそれらを俺は渡されたが、スマホ以外は戸惑うだけで、一緒にきた母さんが処分について引き受けてくれた。 「こちら、死体検案書と検視調書になります。奥さんの遺体はこのあと司法解剖をすることになります。解剖には数日かかります。終わりましたら草薙さんにご連絡いたします」警察官の説明は淡々としている。その慣れた様子に、こういうのが普通なのだと考えさせられた。司法解剖が終われば、ほぼすぐに引き渡し。葬儀社に連絡をすれば、警察の安置所から葬儀社の霊安室まで搬送すると簡単に請け負ってくれる。その手続きの全てが、警察から交付された書類と俺の運転免許証ですむ。「夫婦」という肩書きがあるだけで、これだけ迅速にことが進むのか。写真探しとか、家庭裁判所とか。唯のときとは大違いだ。 葬儀の日程が決まると、俺は綾子の実家である田沢家に知らせた。綾子の死を報せたときは、母親である綾音夫人が泣いたくらいで、父親も兄たちも「そうか」と淡々としたものだった。これについては、俺も似たようなものだから彼らを責めてはいない。むしろ彼らからは「お前が殺さなかったのか」というような目を向けられ、苦笑してしまった。通夜と告別式の準備は、火